2006年03月05日

淡路雑俳

 冠句と折句だけでできている、と磐井さん。
 折句は語頭に指示された字を詠み込むが、三ツ折(長)だけでなく、独特の七七による二ツ折(短)もあり、野心的な試みも多い、とも。
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2006年03月04日

狂俳と冠句

 久佐太郎以外の人の冠句の意見は、あえて飛ばす。
 で、狂俳では、冠題の持つ意味を重要視し、てにをはにも細心の注意を、という感じながら、冠句では違う、という他の人の意見を引いている磐井さん。
 で、雑俳は統一せず。
 近代化した正風冠句の興行的句会もあまりないことを確認して、明日から、淡路雑俳へ。
 
posted by 木村哲也 at 08:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年03月03日

別の句の鑑賞(4)

 冠題を重層的に活用するのは冠句だけの専売特許ではない、と磐井さん。
 だが、形式が新しい思想・内容を作り出すとは言える、とも。
 久佐太郎の後継者は、実作を伴った主張を展開しているとも。
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2006年03月02日

別の句の鑑賞(3)

 冠句と附句との関係は三味線と唄の如しで、つかず離れず、暗示文学の中でも最も暗示的、という久佐太郎を引いている磐井さん。先で、批判もしているが。
 表面的に五七五がつながるのでなく、内面的につながることに意味があるのが、川柳や俳句との違い、とも久佐太郎。
posted by 木村哲也 at 09:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年03月01日

別の句の鑑賞(2)

 花といえば桜だし、そもそも高く見上げるのだから、スミレなどではない、という趣旨の久佐太郎の説明を引いている磐井さん。確かに。
 さらには、詠嘆的口調で花を見上げた主人公の気持ちもうかがい知れる、とも。
posted by 木村哲也 at 10:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年02月28日

別の句の鑑賞(1)

高々と花を仰げば昼の月

 形容詞「高々と」は、第一段で「花を仰ぐ」、第二段では「昼の月」にと、二様の働きをしていると、久佐太郎が言っている、と磐井さん。
 形容詞ではなく、副詞か、と愚考。
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2006年02月27日

冠句の具体的な技術論(4)

 この句の最後に至り、磐井さんが、久佐太郎は演劇の専門家、と。
 で、久佐太郎は、省略が冠句の本質、なぜなら冠題に五文字で、十二文字しかないから、と。
posted by 木村哲也 at 00:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年02月26日

冠句の具体的な技術論(3)

 一段落飛ばす。
 近代劇の構成法とよく似て、幕開きと同時にクライマックスに立っている、という趣旨のことを、久佐太郎が述べているのが、磐井さんによって引かれている。
 すごい比較の視野。
posted by 木村哲也 at 04:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年02月25日

冠句の具体的な技術論(2)

 続く部分は、久佐太郎を引用した磐井さんを、あえて孫引きする。
 「省略された句に合間に説明文字を嵌めてゆくと、(娘が)(母に)(縁談を)勧められ(て)(その婿となるべき候補者の)写真(をみてゐるうち)に(娘は)(この写真とは)別な影を(心の中で)追ってゐた」
 創作にも鑑賞にも、冠句を越えて大いに参考になると愚考。
posted by 木村哲也 at 01:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年02月24日

冠句の具体的な技術論(1)

勧められ写真に別な影を追い

 スペースをあえていつものように詰めて小生が引用した、久佐太郎の考察を磐井さんが引いている句である。
 主語(誰が)もなければ、副主格(誰に)も目的(何を)も、三つの主な要素が除かれているが、省略法が成功し感銘をひく、という久佐太郎の意見が引かれている。
 まずここに、なるほどと思った。
posted by 木村哲也 at 08:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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